河井孝仁のシティプロモーション日記とか

『ルポ米国発ブログ革命』・2009年09月24日(木)

23日。池尾伸一『ルポ米国発ブログ革命』読了。
ハイパーローカル・メディアという発想は重要。
「パグダッドで生きている…日常の生活 既存のメディアがほとんど無視しているイラクの一般の人たちの声がネットで伝えられている」ということを例にとれば、多様な基礎情報は発信されていると言うこと。
これらを拾い上げる意志と能力と柔軟ささえあれば、相当な「ジャーナリズム」は可能になるはず。
ここでの「拾い上げる能力」には記事の信頼性の見極めも含められることは当然。
本来は、これらの議論が、TOKYOメディフェスの分科会「市民記者・ブロガーのための・・・」で語られるべきことだったと考える。 [読書]

「市民はblogなどで最初の警告はできるが、税の無駄遣いや汚職など隠れた実態をじっくり調べあげられるのはプロの記者」という文がある。
ここで重要なのは「プロの記者」を「既存のメディア」と誤読しないこと。ネットを含めた多様なメディアにプロの記者は存在しうる。
そのうえで、その多様な「プロの記者」の資質面、経済面からの持続可能性を担保する仕組みが課題になるわけだ [読書]

基礎情報については、さらに「内部告発制度」「情報公開の徹底」「信頼性確保の工夫」などにより、相当なものが出てくると考える。
それらを基礎とした編集により、既存メディアにしか(でも)できなかったことが可能になるとも考えられる。 [読書]

ニューヨークタイムズのWebへの対応。「新聞記事をネットに載せるのではなく、取材の初期段階や記事の作成段階からネットでどう見せるのかという発想で編集局全体が動く。」とのこと。これは事例として把握しておく必要がある。

寄付金やNPOによるジャーナリズムが必要だと著者は述べる。「読者に課金することも困難」だということが前提。しかし、アイテム課金みたいなものはあり得ないのか。 [読書]

市民ジャーナリストという言葉について、次のような文章がある。「ジャービス准教授は…市民ジャーナリスト…(という)呼び名は不適切な言葉」であるとする。
この理由として、ジャービス氏は「情報発信者をプロの記者と市民記者に分け、無用な対立感情を招く」ことを理由としている。
しかし、むしろ、多層な発信者を一律にしてしまうことの問題なのではないか。
市民ジャーナリストなのだから、これこれの資質が必要としてハードルを上げる。そのことで、多様な情報があふれ出てこない状況が生まれる。
そうした点に「市民ジャーナリスト」という言葉の不適切さはあるのではないか [読書]
  1. 2009/09/24(木) 22:12:31|
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コメント

お久しぶりです。

ご無沙汰してすみません。小野寺です。単身赴任で多忙な日々。しっかりしているようで時々ぬけているおちゃめな河井先生のかわいい笑顔をこのところみられなくて、寂しく思っていました。どうか、御身ご自愛の上、ご活躍下さい。で、難しいテーマが河井先生の解説で「なるほどな~」と、ちょっと本を読んでみたくなったので、感謝を込めて、コメントを送ります
  1. 2009/09/25(金) 17:27:58 |
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  3. tokobu #-
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  1. 2009/12/18(金) 16:06:55 |
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河井孝仁

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自著(単著・共編著・執筆分担)

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