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河井孝仁のシティプロモーション日記とか

妄想力を食べながら生きております

シティプロモーション2.0とは、
①地域持続のために獲得すべき資源として、地域に関わる人々の参画「意欲」を最も重視する
②獲得すべき資源としての意欲の「定量化」を行うことで的確な事業評価を行う
③獲得した資源である人々の意欲を活用することで、地域に関わる人々の幸せという「状況」を実現する
という「意欲(獲得)」「定量化」「状況(実現)」の3点セットによって成立する。

そんなことも頭に置きつつ
水曜日には、八王子市を訪問し、時間を割いていただき、当市のシティプロモーションの現況、特にインターナルコミュニケーションのあり方などを中心に意見交換。
木曜日には、総務省地域情報化アドバイザーとして、調布市地域情報化推進協議会とのオンライン意見交換、レクチャ。
土曜日には、立川市を訪問し、シティプロモーション・アドバイザーとして、市民・職員ワークショップ。
いずれも一定の成果があったというのは例によって夜郎自大。

金曜日には、朝日新聞からの都構想に係る大阪市広報について電話取材受け。地域経営におけるプリンシパル・エージェント関係を基礎に、二元代表制、可視化と行動変容などに言及して述べておいた。
取材といえば、東京新聞の神奈川県コロナ対策YouTuber活用広報についての取材を受けた紙面が研究室に届いていた。広報評価における目的概念とロジックについて語ったつもり。

火曜夜に映画『幸せへのまわり道』。いわゆる、いい映画だけど、ラスト近くに、トム・ハンクスが一瞬、ピアノの鍵盤を強く叩くシーンは相当深い。

木曜日に東京都現代美術館。10:00から16:00まで6時間滞在。
オラファー・エリアソン『ときに川は橋となる』。
芸術とは多様な意味での【場所】(と人間の関係)の可視化である。一方で「可視化」自体が人間の視覚という、ある意味では極めて不確かなあるいは個別的なものに依存している。そんなことを考えさせる作品たち。

『もつれるものたち』カディスト・アート・ファウンデーション共同企画。
藤井光の、東日本大震災による原発事故、それによる地域の危急をモチーフにした、映像を含めたインスタレーション作品「解剖学教室」が提起する「時間の乱調」「引き渡すべき【共同体】の不在」などの鍵概念に惹かれる

木曜日は推し歌い手である瀬生ひろ菜のインスタライブ。楽しむ。

金曜日。国立能楽堂で能『天鼓』。多様な読み方があり得るだろうが、私は革命の物語として観た。
都に住む皇帝に天鼓(楽器)を奪われ、呂水に沈められて殺されたシテとしての天鼓(人)は、実は、皇帝を祝祭的に凌駕してしまう存在。
ワキは、そうした存在である天鼓(人)を呂水から呼び出してしまう。
都に住む皇帝は、天鼓(楽器)を自らの力の誇示としても鳴らそうとするが、その目前に価値転倒が待っている。
単なる娯楽に止まらない、雷神に喩えられる神の力を賀ぐ天鼓。
その天鼓を鳴らせない存在でしかない皇帝の明示化。皇帝は既に革命されている。
実は皇帝はその価値転倒を無意識的に感じていて、天鼓(人)を殺したはず。
しかし、自らの地位を危うくさせるが故に、離すことのできない天鼓(楽器)は、実は、天鼓(人)と表裏一体の存在である。
しかも、いったんは排除された天鼓(人)は、呂水という【土地の力】により、蘇生力を保持している。
天鼓(人)は自らが革命者であることの気づきへの大きな喜びを感得して舞う。
排除したはずの自らの墓穴を、自ら招き寄せつつ、それすら理解できないまま都に住む皇帝への、決定的批判を暗示する物語
(なんて、勝手な解釈してるのは私だけだとは思うが)

で、このエリアソンも藤井光も、とりわけ『天鼓』も、シティプロモーションにおける意欲獲得、より具体的には【関係人口創出を可能とする「物語」】という議論に重ねて、考えるのは、専門の「さが」でありますな。
ま、妄想力を食べながら生きております。

妄想では空腹を満たせないヴァネは「美術館は楽しかったけど、6時間は無理。途中でレストランに行くべきだった」と不満たらたらではありますが。
明治神宮野球場でのスワローズ。木曜・土曜で1勝1敗。美味しそうにミックスソーセージ600円也を頬張ってるヴァネは、勝っても負けても、ビールのことと、『天鼓』における囃子方と地謡の意味、アイが地域に根づく人々の象徴であるとの持論についてしか話しませんな。
  1. 2020/09/19(土) 23:31:30|
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埋め込まれた記憶を掘り出すものとしての地域メディア

首都と地方の関係性をどのように考えるのか。首都圏に住む人々に、その他の地方にある多様な地域を、無縁の【経由地】で終わらせず、自分ごととして考えさせるには、どうしたらいいのか。
「物狂い」という発想が求められるのかもしれない。言い換えるなら「異化」とか「トリックスター」とか。価値を(一時的に)転倒させる仕掛け。転倒させる人、人々。
それによって【経由地】での経験を覚醒させる。そこに例えばアートというものもありそうだ。
常態では地域は消費される存在に過ぎない。そこに転倒させる仕掛けを用意することで、【経由した地域】というものが持つ価値に気づかせる。

『花筐』という能において、照日の前が、子方が務め(=無垢な残酷さを持ち)、都に移った継体天皇に対し、自ら物狂いになることにより、共に暮らした越前国味真野という地域での経験を覚醒させたように。
さらには、【経由地】における当事者化までを図る。『野宮』という能で言えば「御息所は我なりと」という名乗りを促す。
その際に必要なことは、所の者(=地域住民)と、僧(=流浪する専門家)の連携になる。
地域住民と流浪する専門家の連携した力によって、当事者化された【経由する人・経由した人】は覚悟の力により、迫力を持って舞う。
そこまでを実現できるかが、いわば関係人口の議論になるだろう。

土曜日に国立能楽堂で『花筐』を、日曜に矢来能楽堂で『野宮』を観た。
「国立能楽堂では、時々、眠そうにしてた」。ヴァネには見破られていたけれど。
「でも、センセイのその分析は嫌いじゃない」。横を見たまま言う言葉を、褒められたととっておこう。

土曜の夜には、拡大エディラボの趣で、"zoomメインにミニシンポジウム「withコロナにおける脱力系地域のすゝめ」"を開催。
想定以上に多くの方が参加され、楽しめた。
参加者に何らかのきっかけを作れたのであれば嬉しく。
主には「土地の持つ力」についての議論だったか。それも廃墟やモニュメント、地域ガイド人などをモチーフに。埋め込まれた記憶を掘り出すものとしての地域メディアという発想。
視点を一つに持たず、それぞれのアプローチで地域を可視化することの意義とか。

映画はヒューマントラストシネマ有楽町で「シチリアーノ 裏切りの美学」。こうした引き延ばされた時間のなかで、切迫しつつも日常に埋まりながら、人は生きている。
まさに生きることも、暮らしも映画のようにテンポよく進むわけではないことへの突き付けだ。

月曜は、全国国立大学生涯学習系センター研究協議会での基調講演。地域魅力創造サイクルの展開から大学の役割などに言及。
聴講された皆さんから、いい刺激のある質問もあり、楽しかった。

今日は、山形県職員向け広報戦略研修。オンラインで10:15-16:45。いろいろ工夫したワークが功を奏したようで、それなりによかったな。

ヴァネが、読み終えた『配膳さんという仕事』について語ってる。
「つまり、京都の嫌らしいところと、すごいところの両方が書いてあった。もちろん、こういうまちに住む気はないけどね」
  1. 2020/09/15(火) 23:29:22|
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ヴァネッサ・ゴールドスミス・フロイド

ヴァネッサが言うには「『寿曾我対面 工藤館の場』はお客さんが少なくてびっくりした」とのこと。

確かに歌舞伎座の一等席はがらがらで心配になるほどだった。

とはいえ、米吉の化粧坂の少将は可憐で美しく、歌六の仁(ニン)にあった鬼王新左衛門は納得の出来。これは舞台に近い席だからこその僥倖だ。
吉右衛門の濡髪長五郎、幸四郎と猿之助のかさねも、こちらは三階席から楽しめた。

で、ヴァネッサ。ヴァネッサ・ゴールドスミス・フロイド。V.G.F。ゴールドスミスは父方の姓で、フロイドは母方らしい。
ただ、切れ長の眼も髪も、黒く輝いているし、少なくとも私とは流暢な日本語しか話さない。国籍とか聞くほどの関係でもないから、まぁ、よくわからない。そもそも、本名じゃないのかもしれない。
とりあえず、ヴァネって呼んでるから、ここでもヴァネとしておく。

ヴァネが「あの、挨拶に来られたひと、誰?」と聞くので、「歌六丈のところの番頭さん。」と答える。
「女性…だよね?」「だと思うよ。歌六丈と米吉丈の対外的なマネジメントが仕事かな」「どうして挨拶に来たの」「このチケットは番頭さんから買ったから」
ヴァネは、違う方向をみて「ふぅーん」と気乗りしない声で言う。いや、君が聞いたから答えたんだけど。
「玉三郎の鷺娘はすごかった。なんか最初眠かったけど、最後は凄かった」
すぐに違う話になってる。いつものことだけど。
「清廉な色気っていうのかな。玉三郎はそれがベースになったうえで、娘も姫も傾城も芸者も務める。艶やかにも、絶望の淵に立つこともできる。」
「どうせ、私には色気とかないから」ヴァネの言葉には取り合わない。さっきの仕返しみたいなもんだ。

「『INTENSITY』のSPECTRA。覚えてる?」。ヴァネはもう一枚うわてだから、取り合わないことにも取り合わず、また、違う話を始める。銀座のPOLA museum ANNEXで開催されていた松尾高弘の作品のことだ。
「水の花火、みたいだった」「水の花火じゃ消えちゃうだろ」「バカね。メタファーじゃない」。
メタファー(隠喩)なのか?、むしろ直喩だと思う。
でも、それを言えば、ヴァネの話は最近読み終えた村上春樹の『騎士団長殺し』に飛んでいくことは目に見えているから、黙っておく。
そう言えばヴァネは、泉鏡花の「葛飾砂子」と「いろ扱い」も読んでいたはずだ。
「縦に何本にも落ちる水、しかも、その数を変えながら落ちる直線の水に、特殊なLEDをあててるんだって」
「らしいね」
「『らしいね』って、センセイのほうがじっと見てたでしょ」
と、ヴァネが目を眇めて言う。

「つまり、エビがヤる話しと、シダとヤる話と、筆でヤる話と、ただヤる話と、タコ(ともヤってるけど)の話と、世界の平和についての話よね」
ヨコハマトリエンナーレの話だ。このぐらいの飛躍には十分に付いていける。じゃないとヴァネとは付き合えない。
「まぁ、そうかも。主体としての自分をどこまで置き換えられるか、過去から未来に進んでいくはずの時間をどこまで置き換えられるか、対象としての客体をどこまで置き換えられるか、善と悪っていうような価値判断をどこまで置き換えられるか、部分と全体をどこまで置き換えられるか、そもそも芸術というものを他のなんらかとどこまで置き換えられるかって言う展覧会とも言える。」
「なんか、きいたふうなメタファーを言ったつもり?」
ヴァネが潤いのある唇を歪める、いや、マスクで見えないけど、おそらく。

「さ、美味しい豚肉の生姜焼きを食べに行こう」
マスクで見えない潤った唇のメタファーについて考えている私を置き去りにして、ヴァネは東銀座の通りを歩き出し、数歩いったところで振り返る。
「そこで立っていても豚肉の生姜焼きは歩いてこないよ」
  1. 2020/09/11(金) 23:26:48|
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少々血みどろだったぐらい

先の投稿からは10日ぐらいか。ほぼ何もしていない。少なくとも相対的には。少々血みどろだったぐらいかな。
仕事を含むZOOMでの研究打合せは10本程度。科研費、大学事務・教務、大学院生指導、平戸市、日本経営協会、エディラボ、日本広報学会常任理事会。

情報収集としては、近年の実務的マーケティング状況を学ぶために、翔泳社のMarkeZine Day 2020 Autumnで10本程度の聴講。

社会情報学会大会もZOOMによるオンラインで。表彰委員長としての仕事、理事会、研究発表「新型コロナウイルス禍の状況下における地域関係意欲」、何本かの発表聴講とコメント。

読書は泉鏡花の「三枚続」。山脇 秀樹「戦略の創造学: ドラッカーで気づき、デザイン思考で創造し、ポーターで戦略を実行する」。

で、血みどろなんだが。ヴァニラ画廊のSRBGENk個展「DISPELGIRL」。小学校の教員がこの個展を見ていたら、児童の親は不安になってもいいんじゃないかレベルの作品たち。キジメッカ作品展「キジメッ禍2020」は昭和っぽい。まぁ、血みどろといえば血みどろ。
太田記念美術館の月岡芳年展。前期に続き後期も。無惨絵。血みどろは膠を使った赤が特徴かな。もちろん、芳年はそれにとどまる絵師ではなく、「風俗三十二相」「月百姿」など堪能。

国立能楽堂での能「安達原」。月岡芳年にもこの安達原、黒塚をモチーフにした絵があった。安達原の鬼女が殺した旅人たちの腐乱死体が寝屋にいっぱいに積み重なっているというのは、なかなかに血みどろだ。
ところで、能の物語の抽象性が、さまざまな読みを可能にして本当に面白い。さっそく、仕事への想像力につながる。

国立劇場小劇場で久しぶりの人形浄瑠璃文楽。「寿二人三番叟」「嫗山姥 廓噺の段」「鑓の権三重帷子」「絵本太功記 夕顔棚の段・尼ヶ崎の段」「壺坂観音霊験記」。以上、第一部から第四部まで。
こちらも血みどろは負けていない。腹切って、魂魄が恋人の胎内に入って、産み直されるとか。鑓の権三は岩下志麻(おさゐ)と郷ひろみ(権三)の映画を昔見た。今回の切で女敵討ちされるおさゐの「お懐かしゅう」という言葉や、切られた権三がおさゐの遺体まで近づいて死ぬ姿には、多様な解釈可能性があって震える。絵本太功記では、息子に刺殺される老女も、結婚当日に戦死する十代の若人もいる。そうしたなかで、「忠」への疑問を示しつつ、死に向かってゆく武智光秀の姿は印象的。

神宮球場での観戦日。スワローズは惨敗ではあろうが、出血はそれほどでもないってことにしておこう。

映画は日比谷で「オフィシャル・シークレット」。大量破壊兵器の存在しなかった、つまり結果的には大義すらなかったイラク戦争において、米英の情報機関が行った違法活動をモチーフに。市民、メディア、法律家たちの良心。ナショナル・ジオグラフィックによれば、イラク戦争では50万人もの人間が死んでいる。

土地と、土地における物語と。土地に積み重なってきた、染み込んできた人々の思いと。
そんなところにひきつけて考える。
  1. 2020/09/08(火) 23:25:07|
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お盆もとうに過ぎたんだがね。

昔から「お話」が好きなのは、亡母が熱心に読み聞かせをしてくれたからだろうか。
_ 
そのころ、家に浜田広介(はまだ・ひろすけ)の童話全集があって、「本を書く人」になりたいなあと思っていたことがある。今は、童話も小説も書けずに、全然違う形で本を書く人になったけど。
_
このところ、物語ということを考えている。
物語と「場」みたいなこと。
いつのまにか、専門になった「地域」ということに関わらせながら。
_
この一週間ぐらいで
・国立近代美術館のピーター・ドイグ展。
・アーティゾン美術館の、鴻池朋子「ちゅうがえり」展/ベネチアビエンナーレ帰国展「宇宙の卵」/新収蔵クレー展/印象派の女性画家展
・松屋銀座デザインギャラリーでの森洋子展
・東京都美術館のThe UKIYO-E展
_ 
そういえば、家には亡父のだったのだろうか、大版の世界名画集があった。
子どもの頃に、ダリとかデ・キリコとか見てたことを覚えてる。美術への志向もそんなものが淵源なのかもな。
_
で、それらの展覧会も、物語と「場」という視点で鑑賞する。
_ 
場を作る、場を破る、場は在る、場は造られる。
物語を作る、物語を破る、物語は造られる。
場の声を聞く。述語から考える。
_ 
「知層」としての場が、人を、物語を舞わせる。
舞うためには五感を、六感を研ぎ澄ませて、場を感じる必要がある。
場は今までの舞が積み重なったものとして存在している。
_ 
地域の知層を掘り込むきっかけとしての物語。
在った過去だけではない在り得た過去、在り得なかった過去への(想像力を誘発する)空隙を作り出すものとしての物語。
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明治神宮野球場で3ゲーム。タイガース戦、ジャイアンツ戦を見る。
昔のヤクルトのエースに松岡弘って投手がいて、♫野球はドラマだ、人生だ♫って唄ってた。
まぁ、野球はドラマでも人生でもない。
_ 
スポーツは「物語」として閉じない。瞬間の記録としてしか存在しない。閉じてしまっては単なる自己満足に過ぎない。
_ 
むしろ、スポーツは、物語を常に裏切ることによって魅惑する。
地域という場にとって、スポーツは「物語」を破る可能性として存在する。
_
銀座のGINZA-SIX地下3階に、観世能楽堂はある。25日に、義経の霊を後シテにした謡曲「屋島」をモチーフにした鑑賞教室に参加してきた。
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義経の残した思いである「残念」を、屋島という地域に埋め込み、昇華する。くりかえし埋め込み、くりかえし昇華する。
_
仕事。バンクトゥの光川さんとの意見交換。面白かった。
水戸市での茨城県内市町村職員向けシティプロモーション研修。前回、アンケートで感染不安を記述した受講者がいたとのことで、さらに厳格に。
ワークを行う方法も変えた。
制約があるとさらに新しい可能性が生まれる。
個人ワークのもっと素敵な展開も見つけた。
_
月刊「広報」9月号の連載原稿を書き終えて送る。
7月のシンポジウム「ニューノーマルにおいてシティプロモーションは不要不急なのか」をモチーフにして。
パネリストの一人から発せられた「光を当てる」という語句を鍵概念に展開できた。
まぁ、悪くない。
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今日はシティプロモーション ・アワード実行委員会。新橋をオフライン拠点にリモート中心で。
2021年度にはアワードを動かす。そのためのスケジュール及び体制検討。
いい意見交換ができた。
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その後に、映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」を新宿武蔵野館にて鑑賞。
巨大な隣国を思い、この国を思えば、昔話ではない。
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ああ、これを書いた途端に、当時は立ち見もできた映画館で、亡父母とともに、立ち並ぶ人の間からマカロニウエスタン映画を見た記憶がよみがえる。
_
お盆もとうに過ぎたんだがね。
  1. 2020/08/29(土) 23:24:38|
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河井孝仁

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自著(単著・共編著・執筆分担)

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